鍼灸はどこから伝わり、どんな歴史があるのかの概略を参考文献を元にまとめてみました。大きく3つの時代にわけ記述します。
鍼灸の歴史(その1)
鍼灸医学の誕生
鍼灸医学は今から二千年以上前(紀元前数百年前)から紀元頃に、中国で東洋医学がまとめられるなかで誕生しました。
都市国家が誕生し、病の伝搬速度の加速化や病の複雑化が進む中、国力維持のため、学問の裏付けのある医学が必要となったのです。
国が生まれてくる過程で、大規模な自然破壊、社会環境が大きく変わり、今までの医療ではうまく対処できなくなってきた事があり、陰陽五行などの理論を交え、自然であることを大事にし、自然の摂理に従い生きていいくことが健康を維持していく上で大事であるということが考え方の基盤となっています。
この状態は現在でも続いており、環境変化によるストレスなどで体調を壊していく患者さんから、現代でも見直して生きていくことが重要なのかもしれません。これは鍼灸の健康観でもあり、できれば実践したいことです。(なかなか難しいですが…)
より自然であることをよしとする
- 養生を大事にする
- 自然の摂理に従う
- 活淡虚無の境地で生きる
治未病の考え方
- 病のごく初期の釣行の段階で治療をして、本当の病に移行させない。
- ある病の段階から次の病の段階に移行しないように治療する。
鍼やモグサを用いた治療(灸)自体に話をもどしますが、これらは、戦国時代の文献に登場し、最初は外傷の対処に使われていたようです。例えば、初期の灸は、乾燥した葉に火をつけ、膿や傷口を直接焼いて治療するために使われていました。やがて、傷口を直していたら別の場所の痛みも治ったなど、“局所の施術が全身に影響を与える” ということを経験的に発見していったのです。その効果の高い場所が、「穴(つぼ)」や「経穴(けいけつ)」 と呼ばれるようになり、 また経穴同士の関係性が深いルートが発見され 「経絡(けいらく)」 と呼ばれるようになりました。
これらが、『黄帝内経』という書物にまとめられました。『黄帝内経』は、前漢(紀元前206年~8年)の時代に編纂された鍼経と素問からなると伝えられており、 その内容は散逸したが、唐の時代762年に王冰(おうひょう)の著した素問と霊枢が伝えられており、 素問が理論的であるのに対し、霊枢は、より実践的に記述されています。
参考文献:
・東京有明医療大学 鍼灸の歴史:https://www.tau.ac.jp/department/healthsciences/acupuncture/history-a
・全日本鍼灸学会雑誌 日本鍼灸の歴史 形井 秀一
・黄帝内経 -中国医学の形成過程- 山田慶兜
鍼灸の歴史(その2)
日本への東洋医学の伝来と日本化(〜江戸時代)
縄文時代・弥生時代 (医学の記録ははっきり残っていない)
日本の医学の記録ははっきりと残っていない。縄文から弥生時代に定住化が進み、稲作が盛んになったころ(紀元前3-2世紀)には、日本の人口は推定600万人ぐらいとされ、まとまった考えの下、医療行為が行われたと推測される。
大和時代・飛鳥時代 (中国医学の伝来) [鍼灸]:鍼博士、鍼生といった官職誕生
6世紀頃、東洋医学は、最初、朝鮮半島(百済や高麗)から日本に伝えられ、その後、遣隋使、遣唐使が派遣され、直接中国から影響を受けた(恵日らが『諸病源候論』を持ち帰る)。律令制度(大宝律令701年)が 整えられる中で、鍼博士、鍼生といった官職が鍼灸を扱う医療職として設けられました(医疾令)。
平安時代前期 (中国の考え方の吸収、日本古来の医学再評価) [鍼灸]:貴族の為の医療
8世紀には中国の考え方や文化・文明を吸収しようという動きが盛んな時代。 9世紀には日本古来の医学を評価する動き、日本各地の神社や民間伝承医学を中央にあつめて編纂するように勅命が出される。『大同類聚方』や『金蘭方』(散佚)。894年遣唐使廃止
平安時代後期 (中国医学の日本化) [鍼灸]:医学全書作成の中で整理される
日本現存最古の医学全書『医心方』が作成された。平安時代に鍼博士の地位にあった丹波康頼が当時までに舶来していた多くの中国の医学書をもとに編纂し、984年に円融天皇に献上したもの。唐の時代の200以上の中国医書を整理し(現在中国で亡失したものも含む)、当時の日本的な視点から編集して書かれている。
鎌倉・南北時代 (僧医が主体となり、民間への浸透) [鍼灸]:鍼は宮廷。灸は民間へ
武士が台頭、仏教の僧が医学を行う僧医が盛んになり、民間医療の中心的役割を担う。栄西が書いた『喫茶養生記』など、民間にも浸透していった。医学理論は中国の宋の影響をうけた。経験医学的なものが力をもつようになり、開業医が現れ、報酬をとって診療するようになる。
室町、安土・桃山時代 (日本での医学の発展と実践、西洋医学伝来) [鍼灸]:寺院で灸治療が盛ん。視覚障害者の組織化
僧医が直接中国で学んで医学を持ち帰り、鍼や医学の専門化が進み、専門分野の科(婦人科、小児科、眼科)が確立。鍼は宮廷で勢力が落ち、薬物療法と鍼が分離して各流派ができる。視覚障害者の組織ができて、鍼を学び始める。1543年にポルトガル船が種子島に漂着後、スペイン、オランダなど西欧諸国から直接来日し、南蛮医学やキリスト教を伝える。また、中国の金元時代の金元四大学派の教えがその後の日本に入り影響を及ぼす。
江戸前期 (朱子学が影響、鎖国下でもオランダ経由で影響) [鍼灸]:鍼治講習所 全国45箇所、盲人への教育制度、管鍼法考案
朱子学中心で、東洋医学に強く影響。入江流に師事し後に破門となった杉山和一が将軍綱吉の寵愛を受け、盲人に対する鍼灸の教育制度を確立。全国45箇所に鍼治講習所をつくり、日本ならではの鍼管をつかった管鍼法を考案(現在の主流な鍼の技術)。 西洋医学では、オランダのカスパル流の外科が伝わった。人体の捉え方も東洋医学に通じるところがあり、まだ現代西洋医学への発展の前。
江戸中期 (経験的・実践的な医学出現、人体解剖も) [鍼灸]:『鍼灸則』70穴の治療法、腹診が重視される。中国古典への回帰
朱子学から儒学に戻ろうとする動きが活発。経験的・実証的な医学を目指そうとする医師が出現(古方派、これより前の派閥は後世派と言われている)、この中で腹診が重視され、現代鍼灸の診断にも伝わっています。名古屋玄医、後藤良山らが「傷寒論」(中国の古書)に帰ることを主張。 健康書として、貝原益軒が『養生訓』を執筆。蘭語の研究(青木昆陽)が盛んになり、人体解剖(杉田玄白)も行われるようになった。 鍼灸では、菅原周圭が『鍼灸則』という本を出し、70穴で治療できると主張。
江戸末期(日本古来に戻れ、折衷派、ヨーロッパ医学の影響など様々な考え方) [鍼灸]:温泉やあん摩が注目、鍼灸の様々な研究
封建社会が崩れ始める時代、日本の国学が重視され、中期以降の和方がおき、医学の日本古来にもどれと主張されたり、温泉やあん摩が注目された時代。蘭学の翻訳禁止が解かれ、シーボルトなどの活躍もあり、ヨーロッパ医学の影響も大きくなってきた。
医界の政治権力は、考証学派と総称される医師達によって、鍼灸医学のバイブルである『黄帝内経素問』『黄帝内経霊枢』などの原典に関する詳細な研究が なされ、本場中国でも高い評価を受けることになります。森鴎外の『澁江 抽斎』、『伊沢蘭軒』などの歴史小説はこうした考証学派の医師達の記録をまとめたもの。
鍼灸では、石坂宗哲が和蘭折衷をし、東洋医学の古典を西洋医学的用語に置き換える試みをおこなう『鍼灸治要一言』という本をだしたり、経絡を否定する人や、刺絡など様々な考え方がでてきている。
参考文献:全日本鍼灸学会雑誌 日本鍼灸の歴史 形井 秀一
鍼灸の歴史(その3)
鍼灸存続危機から4年制大学設立、経穴の国際標準化(明治時代〜)
明治時代
明治維新よって新しく樹立した日本国政府は、西洋医学を正統医学と、漢方も含めた日本の伝統医学は非正統医学として存続の危機に立たされます。鍼灸は営業資格としては残りましたが、それは主として視覚障害者を対象としたもの。しかし、一方で灸治療は民間療法として広く普及し、 昭和初期には医師の中で灸をテーマとした医学論文を発表する人も現れました。自ら「足三里」への施灸で養生をし、104歳まで現役の医師として活躍し、 1991年に108歳で亡くなった原志免太郎博士は、灸に関する論文で初めて医学博士を取得した医師として有名。
第二次世界大戦後(昭和20年 1945年)
日本を統治したGHQは鍼灸を非科学的治療法として、実践を禁止しようとしたため、日本における鍼灸は再び存続の危機に直面。 鍼灸に理解のある医学者および全国の鍼灸師、鍼灸業界団体、盲教育関係団体の猛烈な反対運動が展開され、GHQや厚生省への度重なる陳情が功を奏して昭和22年12月に現在の 「あん摩マッサージ指圧師、はり師きゅう師等に関する法律」の原型である法律が制定。
他のアジア諸国では…
中国では昭和57年(1982)に、韓国では昭和61年(1986)に『韓医師』制度、台湾では平成元年(1989)に『中医師』制度がせいていされ、鍼灸を正当医学の一翼として医療制度に中に位置づけ伝統医師の養成を展開している。
1971年 中国の鍼麻酔手術が世界的に報道される
この年、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問。このときに中国の鍼麻酔が初めて国際的に報道されました。 これをきっかけに日本においても鍼のブームが起こり、数多くの訪中団が結成されて中国における鍼灸医療の現状視察が行われました。
1979年 WHO、鍼灸治療の適応疾患を発表
この年、WHOは鍼灸治療の適応疾患43疾患を発表しました。 これは臨床経験にもとづくものであり、必ずしも研究上の裏付けを伴うものではありませんが、鍼灸治療の幅広さが理解される資料です。
1981年 社団法人 全日本鍼灸学会設立
日本においては戦後鍼灸に関する学術的な学会が数多く設立されましたが、そのなかでも中心的な役割を担ってきた日本鍼灸医学会と日本鍼灸治療学会とが統合され、 全日本鍼灸学会が設立され、これ以降の日本における学術的な鍼灸研究において中心的な役割を担っていくことになります。
1983年 鍼灸教育に特化した初めての4年制大学設立、世界鍼灸学会連合(WFAS)設立
この年に明治鍼灸短期大学が明治鍼灸大学に昇格し、鍼灸教育に特化した初めての4年制大学が日本で誕生しました。これを機に日本における鍼灸教育は新たな局面を迎えることになります。 すなわち十分な現代医学の知識を修得した上で医療機関で働く新しい鍼灸師像が求められるようになったのです。
また、この年に、鍼灸の世界的な学会の連合体であるWorld Federation of Acupuncture and Moxibustion Societies(WFAS)が創設され、日本はその設立に大きな貢献を果たしました。
1989年 鍼灸用語(経絡・経穴名称)がWHOジュネーブ会議で正式に承認され
1997年 米国国立衛生研究所(NIH)が鍼に関するパネル声明を発表
アメリカの国立衛生研究所(NIH)がし、手術後の吐き気、妊娠時のつわり、歯科手術 後の痛み軽減など、一部の病態、疾患についてですが、 鍼灸治療の効果について認 める声明を発表しました。 これが大きな反響を呼び、アメリカだけでなく、ヨーロッパに おいても鍼の臨床研究が盛んになります。 ドイツでも大規模な臨床研究が実施され、 腰痛などに対する鍼治療に対し、保険適用されることが決まりました。
2008年 経穴位置の国際化
WHO西太平洋事務局(Western Pacific Regional Office: WPRO)は、2003年から伝統医学の国際標準化プロジェクトを開始しました。 その最も大きなプロジェクトのひとつが鍼灸治療で用いるツボ(経穴)の位置の標準化です。日本、中国、韓国の代表者による6回に及ぶ非公式協議の末にWHOの 公式な経穴位置がこの年に定められました。この他にも漢方領域も含む伝統医学用語の標準化など、国際的な標準化の動きが現在も進められています。
参考文献:明治時代以降における鍼灸医療制度・教育および研究の変遷 明治国際医療大学 鍼灸学部 北小路 博司
東京有明医療大学 鍼灸の歴史: https://www.tau.ac.jp/department/healthsciences/acupuncture/history-a/